南無大師遍照金剛

空海さまが広めた真言密教、仏教をまとめたブログです

大日経 大日如来様が説く教え

 
 
修行僧時代に「大日経」と巡り合い、この勉強のため唐に渡った。

唐の西安で恵果和尚から真言密教の象徴である曼荼羅・経典・経具を全て受け継ぎ、

「遍照金剛」の法号を得て第八代宗祖となって帰国した。



大日教は、密教のお経で真言宗の根本経典のひとつ

大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)、
略して『大毘盧遮那経』(だいびるしゃなきょう)、あるいは『大日経』(だいにちきょう)は、
大乗仏教における密教経典である。成立時期には諸説あるが、7世紀の中頃が穏当な説である



仏の言(のたま)わく、菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す。
秘密主、云何(いかん)が菩提とならば、謂(いわ)く実の如く自心を知るなり。


仏教経典。『大毘盧遮那(だいびるしゃな)成仏神変加持経(じょうぶっしんぺんかじきょう)』の略称。漢訳およびチベット訳だけが現存し、サンスクリット原典は失われている。漢訳は善無畏(ぜんむい)と一行(いちぎょう)の共訳(725)で七巻、36品(ほん)(章)からなる。チベット訳は、インド僧シーレンドラボーディとチベット訳官バンデ・ペルツェクによって、750年から760年の間に七巻、29品に訳されているが、漢訳の「供養(くよう)品」は含まれていない。『大日経』がインドのどこで成立したかについての確答は得られていない。アフガニスタンのカーピシャ(迦畢試国)、中インドのナーランダ、西南インドのラーター(羅荼国)、北インドカシミールなどの諸説がある。また、いつ成立したかについても新古種々の説があり、もっとも古くみる説では500年ごろという説もあるが、やや古きにすぎ、7世紀の中ごろとみる説がもっとも難がない。
 7世紀以後の、独立した性格を有するに至った密教を、中国・日本の密教家が「純密(じゅんみつ)」と称し、それ以前に成立した密教を「雑密(ぞうみつ)」と区別する。この純密、すなわち正純なる密教の重要なる経典の一つが『大日経』である。『大日経』は真言(しんごん)宗の三部秘経の一つとされ、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』とあわせて「両部の大経」といわれる。『大日経』の展開する仏の世界は「胎蔵界」というが、これは、この経典の示す世界を図式化した曼荼羅(まんだら)が「蓮華胎蔵生(れんげたいぞうしょう)曼荼羅」とよばれるためである。経の内容は、大毘盧遮那仏大日如来(にょらい))が秘密主の問いに答えて、秘密真言の心と表現(方便)と実践(大悲)とを説いたものであり、経の大部分は実践のための儀式の細則で、これを胎蔵法と称する。[金岡秀友]
[参照項目] | 金剛頂経


曼荼羅】より
… このように曼荼羅は本来壇を中心とする個別の曼荼羅に源を発し,時代とともに離合集散しながらしだいに総合されてきた。そのきわまるところ,7世紀中ごろ,《大日経》が成立し,以後それにもとづく一大総合曼荼羅である胎蔵曼荼羅が描かれ,また7世紀から8世紀初めにかけて《金剛頂経》が作られ,それにもとづいて金剛界曼荼羅が描かれるようになった。密教ではこの時点で確立された大日如来を中心とする密教を純密,それ以前を雑密といって区別している。…

※「大日経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報




仏の言(のたま)わく、菩提心を因と為し、大悲を根本と為し[注釈 2]、方便を究竟と為す。
秘密主、云何(いかん)が菩提とならば、謂(いわ)く実の如く自心を知るなり。


大日如来は言った。

「悟りを求める心(菩提心)を原因として、
大いなるあわれみ(大悲)を根とし、手段(方便)を
究極なものとするのである。」